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東京地方裁判所 昭和36年(ワ)5546号 判決

原告 恩田久男

被告 坂本自動車株式会社 外一名

主文

被告坂本自動車株式会社の原告に対する、昭和三二年一二月二四日午後一〇時五七分ごろ、東京都台東区稲荷町一〇番地先の路上に於て被告宮下代作の運転する被告会社所有の普通乗用自動車が原告と接触したことにより原告のこうむつた損害につき被告会社と原告との間において昭和三三年九月八日示談が成立し、原告は被告会社が昭和三二年一二月二四日から昭和三三年九月五日までに支払ずみの入院治療費並に昭和三三年九月八日支払ずみの金一一万円の慰藉料をもつて解決し、その余の損害賠償請求権は放棄した旨の抗弁は理由がない。

原告の被告宮下代作に対する請求を棄却する。

訴訟費用中原告と被告宮下代作との間に生じた分は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、「被告らは原告に対し、各自金一〇〇万円及びこれに対する昭和三六年八月一四日から支払ずみまで年五分の金員を支払うべし。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求め、請求の原因並びに被告の抗弁に対する答弁及び再抗弁として次のとおり述べた。

一、昭和三二年一二月二四日午後一〇時五七分頃、東京都台東区稲荷町一〇番地先の都電通りに於て、被告宮下代作の運転する被告坂本自動車株式会社所有の普通乗用自動車(五二年式シボレー自家用乗用車第三-は〇二六一号)が、右都電通りを横断せんとした原告を跳ね飛ばし、全治一ケ月を要する頭部外傷、右腸骨骨折等の傷害を負わせ、これによつて原告は入院治療費、精神的打撃等合計五八三万三、三二六円の損害を受けた。

二、右事故は被告宮下の過失にもとずくものであり、被告会社は、右自動車を自己のため運行の用に供するものであるから、被告らはいずれも原告に対し右損害を賠償すべき義務がある。

三、よつてここに被告らに対し、各自、右損害金の内金一〇〇万円及びこれに対する訴状送達の翌日たる昭和三六年八月一四日から右支払ずみまで年五分の遅延損害金の支払を求める。

四、原告と被告会社との関係で示談が成立したことは否認する。被告宮下との関係で示談が成立したことは認める。しかし、その内容は、原告がその余の損害賠償請求権をすべて放棄するというものではなく、向う一〇年間は後遺症については保障するという特約付のものであるから、なんら本訴請求を妨げない。

五、仮りに本件示談が被告会社との間にも成立し、かつ後遺症についてのとりきめがないとしても、右示談は、原告が本件事故による頭部傷害から未だ完全に回復していなかつたため精神障害に陥つていて、判断力のない状態のときになされたものであり、意思能力なき者のなした法律行為であつて無効である。

すなわち、原告は事故当時人事不省に陥り、その後七五時間意識喪失の状態を続けた後、奇蹟的に同月二八日午前一二時頃覚醒し、生命をとりとめたものであるが、頭蓋底骨折等の頭部傷害はひどく、覚醒後も知能ははなはだ低く、高等感情を欠いて下等の衝動的行動の状態で言語障害を起していた。原告は昭和三三年三月一七日退院したが、退院後も依然として通院を続け、示談当時も逆行性健忘症にかかつていた。これに加えて、示談書の文字は雑然として正常人にも判読が困難であり、これを判読、理解する能力を、原告はとうてい有していなかつたのである。

被告ら訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁及び抗弁並びに再抗弁に対する答弁として次のように述べた。

一、原告主張の請求原因事実中原告がその主張の損害をこうむつたことは知らない。その余の事実は否認する。

二、本件の損害については原告と被告宮下及び被告会社間には、昭和三三年九月八日示談が成立し、原告は昭和三二年一二月二四日から昭和三三年九月五日までに被告会社において支払ずみの入院治療費並に同月八日支払の慰藉料、合計三三万一三七〇円をもつて解決し、原告は、被告らに対するその余の損害賠償請求権をすべて放棄したから、原告の本訴請求は失当である。もつとも右示談書に被告会社代表者の署名がないのは、右示談書は被告宮下の刑事事件に於て裁判所に提出することを主たる目的として作成されたためであつて、示談が原告と被告会社との間にも成立していることは、示談金が事実上、被告会社から出ていることに照しても明らかである。

三、一〇年間後遺症について保障する旨の特約があることは否認する。原告に示談当時意思能力がなかつたとの点は争う。

四、立証〈省略〉

理由

一、昭和三二年一二月二四日午後一〇時五七分頃、東京都台東区稲荷町一〇番地先の都電通りに於て、被告宮下代作の運転する被告会社所有の普通乗用自動車が原告と接触し、それによつて原告が頭部外傷、右腸骨々折等の傷害をこうむつたことは、被告宮下代作本人尋問の結果、証人横山宗雄の証言及びこれにより成立を認めるべき甲第一号証をあわせてこれを認めることができる。

二、そこで次に被告ら主張の示談の点につき判断するに、まず原告と被告会社との間に、示談が成立したかどうかについて検討する。

成立に争いのない乙第三号証及び証人伊沢正作の証言によれば、本件事故についての示談金として支払われた金員は、実際には被告会社が負担してこれを支払い、原告もまた被告会社にあててその領収証を発行しており、これと事故を起した自動車は被告会社の所有であることをあわせれば本件示談は被告会社との間にも成立したことを認め得るもののように見えないこともない。しかし、成立に争いのない甲第五号証の示談書によれば、同書は当事者として原告と被告宮下代作を明示するのみで、被告会社については何ら触れていないことが明らかであり、その宛名が警察署長となつているところからすれば右示談書を作成した目的が、被告宮下の刑事事件に於てその立場を有利にするためにあつたことはこれを諒し得るとしても、示談が被告会社との間にも成立していたものであれば右目的のためにも被告会社をも当事者として表示するのが自然である。この事実と証人金子秀道の証言及び原告本人尋問の結果をあわせれば、金子は当時被告会社の交通事故関係の係をしており本件事故についても原告の見舞や示談折衝にあたつたものであるが、被告会社においては、被告会社関係の事故は会社自体に責任があると否とにかかわらずすべて同人のもとに報告され、被告会社は、必ずしも常に会社自身が当事者となつて示談するものとは決つておらず、もつぱら運転手個人に関する示談でも会社の事故係たる金子が話を進める場合があり、また会社が運転手とならんで責任を負う趣旨の示談をするさいには示談書に運転手の外会社名義をも表示していたこと、本件示談については同人も原告本人も終始、会社にも責任があることについては十分思いをいたさず、もつぱら被告宮下個人のみを念頭において話を進めていたことを認めることができる。従つて前記示談金を被告会社が実質上負担したとしてもこれは被告会社が被告宮下との内部関係にもとずき、これを立て替えて原告に支払つたに過ぎず、示談の当事者としての責任にもとずいてしたものということはできないから、これによつて被告会社との間に本件示談が成立したことを証するには足りない。その他にこれを認めるべき的確な証拠はないから、この点の被告会社の抗弁は理由がない。そしてこの点は本件における独立した防禦方法であつて中間の争にかかるものであるから、その旨中間判決をすべきものである。

三、次に被告宮下と原告との間の示談について判断する。

右両者間に昭和三三年九月八日、示談が成立したことは、当事者間に争いがない。被告は右示談によつて原告はその余の損害賠償請求権をすべて放棄したものであると主張するのに対し、原告は、右示談契約成立と同時に両者間には向う一〇年間後遺症については保障する旨の特約が成立したと主張する。前記甲第五号証(示談書)によれば、示談金額以外のものについては、将来いかなる事故が発生しようとも原告は一切これを請求しない旨の記載があり、これによれば原告は少くとも被告宮下に対しては本件事故から生ずる損害については爾余の損害賠償請求権を放棄したものと解するのを相当とする。原告主張の特約については原告本人尋問の結果中には右主張にそうような部分があるが、前記のように本件示談を仲介した証人金子秀道もこの点については記憶がない旨証言しており、原告本人尋問の結果によつても、右示談の話合いの際同席した上野警察署の署員もその点の記憶がない旨原告に答え、被告宮下も原告に対し「国家でも保障しないものを個人が保障するわけには、ゆかない」と答えたこと、がうかがわれ、結局右は原告の一方的希望事項か一人合点にすぎないものと推認され、結局右原告本人の供述はとつてもつて右特約成立の証とすることはできず、その他にこれを認めるべき的確な証拠はない。

四、原告は右示談は原告の意思能力なきときになされたものであつて無効であると主張するのでこれについて判断する。

前記甲第一、第五号証証人恩田信子の証言により成立を認めるべき甲第二ないし第四号証に証人横山宗雄同恩田信子の各証言及び本件口頭弁論の全趣旨によれば、原告は、受傷後直ちに病院に救急車にて運ばれて入院、当時頭部外傷(右前頭部裂創、左前頭部挫創)右腸骨々折等により意識不明の状態であつて、一時は再起不能を思わせたが同月三〇日ごろ半覚醒の状態となり、さらに二、三日して意識が回復して来たこと、しかし智能ははなはだしく低く、妻や医師の顔もよく分らないような状態であつたこと、昭和三三年三月一四日退院、その後も少くとも同年一〇月三一日までは月に一、二回通院加療を続け、その間同年八月二六日から東大病院脳神経外科に通院加療、同月二七日脳波検査の結果異常が認められたこと、原告は足立学園高等学校の数学担任教師であつて事故のため昭和三三年三月二五日より休職を命じられていたが同年一〇月一日復職を許され、一〇月中は他の教員の欠勤などの際の補充授業、一一月より一週九時間の数学を担当、三四年四月より一週二〇時間の数学を担当するにいたつたもので、このような状況の下に昭和三三年九月八日本件示談が成立したものであることが認められる。

しかして証人安宅喜太郎の証言によれば、同人は当時足立学園高校の校長であつたが、原告の復職を許したのは、必ずしも原告の病状が完全に回復したためではなく、原告が同校の卒業生であつて在学中の成績が優秀であつたこと、同校における勤務年月、熱心な勤務態度、理数科教員確保の困難、原告の生活などを勘案した結果決定したもので、復職当時の原告の様子は、行動やものの言い方、聞かれたことに対する反応などがにぶく、はきはきせず、そのため当初は原告を他の教員が欠勤した場合の補充などに用いた程度で、正規の担任としたのは三四年四月からであつたことなどが認められ、これによれば復職後の昭和三三年一〇月一一月当時においてすら原告は数学教師として能力を十分に回復していなかつたと認められ、復職の事実からさかのぼつて直ちに同年九月八日の示談当時原告が完全に頭部傷害から治癒していたと推測するのは相当でない。しかし他面、人は自己の日常の生活関係や財産上の処分行為はそのことの通常の意味を理解し、その是非を判断する能力があれば有効にこれを処理し得るものというべきであつて、必ずしも高校における数学教師として要求されるような高度な能力は必要でなく、従つて、かかる能力の回復が十分でなかつたとしても、これによつて、直ちに日常通常の処分行為をする能力も回復していなかつたと結論することもできない。

また、証人横山宗雄の証言中には同人は昭和三三年一〇月三一日まで医師として原告の治療にあたつたものであるが、同人が見たところ、原告は退院当時通常人として生活することは困難であると思われたこと、入院当時の状況から考えて昭和三三年九月八日ごろ原告が示談書の文字や内容を判断し理解することは困難であつたと思われる旨の部分がある。

しかしながら、同証言中には、同人は精神科の専門医ではなく、原告の頭脳検査をしたこともなく、本件示談当時に原告が実際に判断能力を欠いていたかどうかはわからない旨の部分もあり、前記の証言部分によつて原告の本件示談当時の判断力の有無を断定するのは十分でない。

昭和三三年八月二七日の東大病院における脳波検査の異常所見についても、はたしてどの程度の異常であるのかそれが意識障害、精神活動の障害に関してどのような意味を有するものであるのか、についてこれを判断すべきかくべつの資料もなく、これをもつて原告の判断力欠缺の認定に供することはできない。当時原告が逆行性健忘症にかかつていたことはこれを証する証拠がないのみならず、本件示談の成否にどのような影響があるかも明らかでない。

かえつて前認定の事実証人恩田信子、同伊沢正作、同金子秀道の各証言原告及び被告宮下各本人尋問の結果をあわせれば昭和三三年九月四日、上野警察署に於て原告、被告宮下、訴外金子秀道が集つて示談の話し合いをした結果、同日慰藉料の額については被告宮下側は一〇万円、原告は二〇万円くらいを主張したが、歩みよつて一一万円となり、その他の事項も大体のところがまとまり、原告が宮下に翌五日会社に来てくれと言われて行つたところ、示談書は出来ていたがこれに一〇年間保障のことが書き入れてないため原告は署名せずに帰宅し、妻信子に「一〇年間保障のことについて相手方に話したが、向うが話に乗らないので今日は印を押さずに帰つてきた。」と話したこと、原告は一〇年間保障のことを確認するため上野警察署を訪ねたが、結局右の点については合意に到達しないことがわかつたので原告はこれを除外して同月八日本件示談書に調印し、慰藉料一一万円を受け取つたものであることが認められる。このような状況から判断すると、原告は本件示談にさいしては判読しにくい示談書の記載もよく判読してその意味を理解したのみでなく、そこでなされた事項全体について利害を比較考量の上本件示談をしたものというべきである。しからば当時原告が本件示談をするについてその行為の是非について弁別力を欠いていたものとする原告の主張は失当といわざるを得ない。

五、よつて原告の本訴請求中、被告坂本自動車株式会社に対する請求は、前記判示の限度に於て中間判決をすべく、被告宮下代作に対する請求は爾余の点について判断するまでもなく理由がないから終局判決をもつてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 浅沼武)

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